炭焼小五郎誕生
 人皇26代継体天皇の世、後の欽明天皇誕生の前年(508年)、豊後の国真名の原、玉田の里に藤次(とうじ)という子が生まれた。藤次は哀れにも3歳で父に、7歳で母に死なれ、路頭に迷う孤児となってしまった。そのころ深田の里に住んでいた炭焼又五郎は藤次の身を哀れんで、養子とし、一緒に炭焼きに連れて行ったりしていたが、やがてその養父母も81歳と79歳でそれぞれこの世を去ると、藤次は名を小五郎と改め、跡目を継いで炭焼に精を出していた。
玉津姫
 その頃、奈良の都の御所につとめる久我大臣の娘に玉津姫というたいそう美しい姫がいたが、どういう因縁か十歳の頃よりにわかに体や顔に醜いあざができてしまい、それまで絶えることのなかった縁談話もはたと途絶え、親も娘も毎日暗澹とした日々を送っていた。
 姫は15歳になったある日、一念発起し大和の国、三輪明神に縁結びの大願をかけることにした。三輪の里、鏡の池で水垢離をとり、七日七夜の断食をしたが、9月下旬の満願の日、にわかに一天かき曇り、車軸を流すがごとくの大雨が降ってきた。姫は驚き、拝殿で休んでいると、いつしかうとうとと夢路に入ってしまった。
 すると容貌麗しき老翁が現れて、
「そなたの夫となる者は、遠く海山を隔てた豊後の国真名の原に住む炭焼小五郎という者である。自分の名も知らぬ愚かな山賤であるが、この者と夫婦になれば行く末は富貴自在にして栄耀心のままに大長者になるであろう。決して疑うことなかれ」
 と、仰せになって、自ら杉の葉を持って、姫の頭の先から足裏まで丁寧に清め、
「そなたの行く末を守護しよう」
 と、のべて杉の葉を二枝、姫の髪にさすと姿がかき消えてしまった。
 夢から覚めた姫は、かたわらに杉の葉が一本あるのを見て、天を拝し、神前を伏し拝み、帰って両親に事の次第を話し、豊後へ旅立つ事を願った。両親は遠方への旅を憂慮し反対していたが、姫の決心は固く、ついに旅立ちを許した。
 翌年二月、両親から頂いた黄金を身につけ、十六歳になった姫ははるばる豊後を目指して出発した。
小五郎との出会い
 姫は道中、難儀をしながらも3月13日、やっとのことで豊後の国真名の原に着いた。ところが小坂というところで付き人のあいが長旅の疲れもあって、ちょっとした不注意から大怪我を負ってしまった。しかしここは人里離れた場所でもあり、あちこちたずねてもわからず、日も暮れ、疲れ果て途方にくれ、三輪明神の加護を信じて祈っていたところ、村人の楠衛門という人物に助けられた。姫は事の次第を打ち明けると、楠衛門は、
「確かに小五郎は知っておる。が、もはや日も暮れたことだ。明日案内するので粗末な家だが今晩は泊まっていきなさい」
 というので、その夜は情けにより楠衛門の家にて一夜を明かすことにし、後をついて行った。
 どこからが夢なのか判然としない。楠衛門の茅葺の家に着き、柴の戸を開いて中に入ると、さらに奥の部屋へと通された。障子を開けると多くの女性が出迎えた。奥の間よりきらびやかな衣装を着た老女が現れると、
「これはお疲れでしょう。まずは食事を差し上げましょう」
 といって、都にも負けぬ珍しいご馳走でもてなしてくれた。また、姫と同じ年頃の十二単で着飾った女が座敷に出てくると、歌や舞いで楽しませてもくれた。老女は、
「都の比ではありませぬが、今はどこも花盛り。庭の花でもご覧下さい」
 と言い、南の門を開けるとそこは桃や桜の花盛り。庭の砂は金銀を敷きつめたよう。また北の門を開けると数十棟の屋形が立ち並び、美しいこと限りなし。東に向かい水晶の階段を上ると金銀、七宝で造られた宮殿があり、戸には玉の簾を掛け、綾羅錦繍の幔幕を飾り、その中に四人の天女がいる。その端厳で綺麗なことといったら比べるものもないほどであった。姫は不思議な気持ちになり、
「この家の主はどのような方なのですか」
 と問えば、
「天竺では大満長者、唐の国では柴守長者、この国にいたって真名の長者と申します」
 と老女がこたえると、にわかに大風が吹き、すべてが残らず消え去ってしまった。荘厳な宮殿が見えたところも草むらとなり、ただ姫が一人と楠衛門が一人立っているだけであった。
 楠衛門に伴われ、やがて山麓の一軒の粗末な小屋をたずねたが、人の気配は無かった。
「ここが小五郎の住屋である。ここでしばらく休んでおればやがて帰ってくるであろう」
 というと、行ってしまった。供人のあいはその後二日間の病床の後に亡くなってしまった。
やがて、楠衛門が言い残した通り、わらびやセリを持った一人の男が小屋に帰ってきた。見れば手足も顔も汚れ、髪もみだれて着ているものも垢だらけであったが目つきは優しく人は悪くないと思われる男であった。
 姫は恐るおそる男に尋ねた。
「あなたが小五郎様でしょうか」
「いかにも小五郎とは私のことだ。あなたはどこの方かな」
 というので、姫は、
「私は大和の国の三輪明神様のお告げにより、あなたと夫婦の契りを結ぶために都からまいりました」
 というと、小五郎は少し戸惑いながら、
「それは思いもよらぬ事。しかし見てのとおりのあばら家で、私一人でさえ食うや食わずの毎日。とてもあなたに食事さえあげられない有様。ここはお断りするほかはありません」
 といった。すると姫は身に付けてきた黄金を取り出し、
「これで食べ物や所帯道具を」
 といって小五郎に手渡した。小五郎は訝りながらも黄金を受け取ると小屋を出て行ったが、しばらくすると手ぶらで帰ってきたではないか。
「どうしたのですか」
 と姫が問えば、
「下の渕におしどりがいたので、それを獲ってあなたにご馳走しようと思い、先ほど頂いた石を投げつけたのだが、石ははずれて鳥は逃げてしまった」
 という。姫は、黄金も知らぬほどの愚かな人かと嘆きながらも、
「あれはただの石ではなく黄金と申してこの世の宝でございます。あれほどで私達は暮らして行けましたのに」
 というと、小五郎は笑いながら、
「あのようなものが宝であるはずはない。あんな石ころが黄金などという宝というのなら私の炭焼窯あたりや下の渕にいくらでも転がっているぞ」
 といった。その言葉に姫は驚き、小五郎と一緒に行ってみると、その言葉どおり炭焼窯の傍ら一面に黄金が散らばっていた。黄金は下の渕にも沢山あったので近づくと、渕の中から一頭の金色の亀が浮かんできて、まるで二人を祝福するかのように優雅に水面を泳いでいった。よってこの渕は「金亀ヶ渕」と名付けられた。二人は黄金を拾い集めて残らず貯えとし、その月の三月二十五日、めでたく夫婦となった。
 貧しい炭焼から一躍大金持ちとなった小五郎の噂は広まり、幾人もが黄金を目当てに山に押しかけたが、ただの石ころしか探せなかった。しかし不思議なことに、小五郎が山に入るとただの石も黄金に変わってしまうのだった。
山王権現のご利益
 ある日、玉津姫は山王権現の神夢により、金亀ヶ渕の水で顔を洗うと、やがて醜いあざはきれいに落ち、またその水を浴びると身体もきれいになり、姫は元通りの美しい姿にかえった。たいそう喜んだ姫は小五郎にもすすめたところ、これもまた美男子になったという。
 二人は山王神の恩恵に感謝し有智山にお祭りし、守り本尊とした。
 大金持ちの美男美女、小五郎夫婦にあやかろうと沢山の人々が伝え聞いて、小五郎の家人となり、これらに田畑をつくらせたので土地も大いに広まり、3年経てば家人3000人を超えたという。その家も57ヶ所に立ち並び、また、臼杵の港に入ってきた支那の船から珍しい品々や宝物を買い求め、ますます富みに栄えたという。
般若姫の誕生
 やがて小五郎は、百済から渡来してきた大工や近江の工匠を雇い、真名が原に三年と七ヶ月を費やし見事な御殿を造営した。本家715坪、家人どもの住屋は100坪、東山御殿という40坪の家を造り、庭も造り、西には庭木を植え込んだ中に214坪の御殿を造り、これを「桜御殿」と呼んだ。北には馬場政所という百間の馬場をこしらえた。また、それより東には120坪の小屋を設け、諸国より尋ね来る人々を受け入れ、家の者と同じく金朱と牛馬を与えたという。
 その普請祝いが8月15日の夜、盛大に執り行われたのだが、姫が輿に乗って来たとき、にわかに大空が振動し、満月が池の中に飛び込んで、しばらくはそこらを転げまわっていたが、それが座敷の中に飛び上がり、玉津姫の胸へと飛び込んだ。姫はそのまま気を失ったが、百済からの妙薬を工匠大司義長が姫の口へと注ぎ込むと、やがて姫は息を吹き返した。
 小五郎は重臣二名に命じ、山王宮に姫の病気平癒を祈願させた。二人は連夜の祈願に疲れ、ついうとうととしていると、そこに白絹の衣に鳩の杖を持った白髪の老人が現れ、
「これは吉事にて、すなわち姫の懐妊である。生まれ来る子は月の精を宿す容貌美麗な女子であろう。しかし、この子は短命である。これは前世で殺生を好んだ報いである。このことは秘して口外してはならぬ」
 と告げた。これは夢ではあったが、両人とも同じ夢であったので急いで帰り、短命の件は秘したまま報告すると、小五郎夫婦はたいそう喜んだ。
 そして欽明2年(540年)5月8日、玉津姫は安産のうちに女の子を出産した。ところがこの子は生まれて三日も経つのに泣くことをしない。心配した玉津姫はかつての奇跡を思い出し、「化粧の井戸」の水を口の中に注ぎ込んだところ、そのとたんに泣き出した。口の中をのぞいてみると舌に三日月の黒い痣があった。これこそ月の精の宿る印であるとし、姫の名を般若姫と名付けた。
黄金仏
 般若姫誕生の翌年、百済の国から竜伯という船頭がやってきて、身の丈一寸八分の黄金の千手観音を奉持した。
「この仏は、百済の南の普陀羅国という島で先年猟師が引き上げたものです。霊験あらたかな御仏なので、般若姫様の守護仏として差し上げましょう」
 と、錦のしとねの上に安置すると、まだ生後十ヶ月ばかりの姫は乳母の膝から這いおりると、小さな手を合せ三度礼拝した。すると不思議なことに、仏の眉間から光明が発し、姫の頭上を照らしたので、居合わせた者は大変驚き信仰するようになった。
 そこで小五郎は黄金一千両を差出して、
「この黄金は仏の代金にあらず。般若姫の行末繁栄の一礼である」
 といったので、竜伯は大いに喜びこれを受け取った。さらに、欽明11年(549年)八月、長者夫婦は竜伯に頼み、南竺山の精舎に黄金3万両を寄進した。その後、その礼にと薬師如来を携えて蓮城法師がやってきた。長者は喜んで、朝に夕に薬師如来を祈念した。
 そのことを聞き及んだ都の排仏派・尾與大臣は大いに怒り、家臣に申し付け、手勢三千余騎を差し向けて、長者屋敷を焼き払うべしとの命を下した。長者は驚き御仏を金亀ヶ渕に沈め、一夜で埋立て山にしてしまった。尾與の軍勢は、仏を見つけることができず、仕方なく引き上げた。
玉絵箱
 欽明11年4月、般若姫11歳のとき、唐の長安の都から文帝の使者が画工細工の名人、夷管・褒薩の兄弟を連れてやってきた。美しい姫の噂は唐土にまで及び、姫の写し絵をさせようということであった。勅使の持参した宝物は、錦の袋に入れられた母黄金500両、瑠璃玉五百粒、蜀紅の錦百巻、楚国の姥柳の楊枝12本などの珍しい宝であり、その上に文帝の筆により「朕贈与焉」と書かれてあった。長者夫婦はたいへん喜び、一行を厚くもてなした。
 名工である二人は般若姫のみならず、姫に仕えている十二人の美女の姿までもそれぞれ二枚描き上げ、その出来栄えは素晴らしいものであった。一尺四方の玉絵箱を二つ作り、それを納めると、一箱を姫に差し上げ、もう一箱を持って、同年8月に長安へ帰っていった。
 ところがその翌年の秋、竜伯が来ていうには、
「玉絵箱の中の姫の写し絵を帝王がごらんになって、大変心を魅かれ、御身から離されず、ついには恋い悩まれた末、今年の三月に崩御なされました。ご病気中、姫への形見として、七宝の天冠、錦の御衣、鸞絞の差貫、綿のしとねを唐櫃に入れさせ、飛竜の剣を添えられてありました」
 といい、その遺品を差出すと、長者夫婦は文帝の崩御を嘆き、形見の品々をありがたく受けた。
 このことは大評判となり、やがて都にもきこえ、欽明13年(552年)2月中旬、欽明天皇は第四の若宮、豊日の皇子の后とすべく、姫を帝都に差し上げるよう北面の武士、安藤隼人正を勅使として豊後の国に向かわせた。
 隼人正は同月25日に臼杵の港に到着し、翌日、小五郎の館に入り、宣旨を伝えた。小五郎夫婦は隼人正を厚くもてなしたが、
「一人娘であるゆえ、たとえ帝のおおせでも差し上げるわけにはいきません」
 と涙ながらに断った。
 隼人正も、それを承知し、その代わりに唐土の名工の手による玉絵箱を献上するようにいうと、夫婦は娘にはかえられないので献上することにした。
三度の難題
隼人正は帰京すると、
「姫は風聞とは相違し、大変醜い女でありました」
 と、嘘の報告をしたが、帝は承知せず大いに怒りて隼人正に閉門を申し付けた。そして、
「勅宣に反して姫を差出さぬとは許しがたし。見逃すことはできぬが、まず難題を申し付け、それに少しなりとも違背したならば、直ちに押さえて姫を取り上げよ」
 といい、白胡麻千石、黒胡麻千石、油千石、けし千石の品々を即刻献上するか、もしくは姫を差し上げるかの選択を迫りに大伴持主を勅使として豊後に向かわせた。
 持主は家来200人を率いて堺の浦から出帆し、七日間で臼杵に着き、この旨を伝えた。小五郎は多くの倉庫からこの品々を次々と出し、船に積んで差し上げた。
 持主が帰京し、この様子や住居の有り様を奏上すると、帝はますます怒り、次は虎の皮千枚、ラッコの皮千枚、豹の皮千枚を献上せよと、再び勅使を使わした。小五郎は直ちにこの品々を揃えてみせると、溝部次郎佐衛門、柿本原孫兵衛、三好和泉の三人に持たせて勅使とともに上洛した。
 帝はいよいよ怒り、
「そのような万宝に満ちた長者ならもう容赦はいらぬ。今度は有無をもいわせず姫を召し連れてくるのだ。それでも違背するならば、これまでになかったような難題を申し付けよ」
 というと、三人は驚いて帰り、小五郎にこのことを報告した。小五郎は家人を集めて評定したが、
「この上は、たとえ官兵が差し向けられようとも、命を捨ててでも姫を守らなければならない。もしものことあらば、唐土の帝に頼んででも防御せねばならぬ」
 ということで衆議一決した。
 欽明17年(552年)九月下旬、伊利大臣が三度目の勅使として小五郎の屋敷に到着し、
「白布千枚、黒布千枚、錦千反、唐綾千巻、珊瑚玉五百粒、瑠璃玉五百粒を用意せよ。もし献上できないのなら、今度はどうあっても姫を召し上げる」
 と伝えると、小五郎は、
「これまで都合三度のご難題。このたびも違背なく献上いたしますが、これを限りにお断り申し上げます」
 というと、途端に勅使の供人である後藤蔵人が小五郎を押さえつけ大刀を抜こうとしたので、小五郎の家人、与四郎、助七、孫佐衛門、十兵衛の4人が障子を蹴破り飛び出して、蔵人を掴むと投げ飛ばし、おのおの矛を取って左右から取り巻いた。同時に、この物音に気づいた者が相国の太鼓を叩いたので、主の一大事とばかりに、手に手に武器を携えて集まった家人の数三千人。
「一人残らず討ち取れ」
 と口々に叫ぶので、さすがの蔵人も恐れ、震え上がってしまった。
 そこで、伊利大臣は、
「静まれ。今の蔵人のやり様は宜しくない。ここは伊利に免じて許して下され」
 といいこの場を納めた。
 小五郎の家人はまたたく間に献上の品々を揃え、3回目の献上品も無事都へ届けられた。
 伊利大臣一行は都へ着くと、帝に小五郎の繁栄ぶりと出来事を報告すると、帝は、
「唐天竺には数多の長者がいるとは聞いていたが、我朝にそのような長者があることを知らなかったのは朕の過ちであった。よって罪科を許し、官領を下す。難題、三度重なるによって、かの里を三重の里と名付けよう。これより小五郎を、豊後の国三重の里真名野長者と称号す」
 と、賜った。
豊日の皇子、豊後へ下る
 姫のことがどうにも諦めきれないのは欽明天皇第四の若宮である橘豊日の皇子(後の用明天皇)。恋するあまり、ついに豊後へ下る決心をした。
 欽明17年(555年)2月21日の夜、若宮は修行者に変装して大内を密かに出発し、まずは大和の国三輪明神に詣で、深く祈願の後、3月下旬、豊後の国の大の瀬に着いた。それから豊前の国の宇佐に詣で、八幡宮に御位を預けて、臼杵へ向けた。
 臼杵の港まで来ると、浜で漁師が集まって蛤をとっている。その中の一人の老女に真名野長者の屋敷を尋ねたところ、
「屋敷はまだ遠いし、山道で日も暮れかけている。今夜は泊まっていきなさい」
 と、老女の家に一晩のもてなしを受けた。
 翌朝、老女に起こされて朝食をいただき、いっしょにしばらく歩いていくと、ちょうど朝日が昇ってよい天気となった。老女は、
「実は私は大和の三輪の者であります。あなたの行く末を守らんがため、今日までお供をしたのでございます」
 というと、その姿はかき消えてしまった。若宮は、
「おお、これぞ三輪明神の化身であらせられたか。有難うございます」
 と、伏し拝んだ。
 三重の里近くの松原に来たとき、長者の牛飼い達がいたので、それを眺めながら休んでいると、手かごにわらびを入れ、鳩の杖をついた老翁が二人やってきた。
「あなたはどこの国の方かな」
 と尋ねたので、
「都の者ですが、鎮西を見に参りました」
 と、答えると、
「あなたは錦の袋に葉竹の笛を持たれているが、一曲承りたい」
 という。
「このような山里でありながら錦を知っておられるか」
 というと、
「いくら山里とて真名野長者の居所ゆえ、都にないような珍しいものも見知っている」
 と笑いながら答えた。さらに、
「その葉竹の笛は代々天子の御宝であるはず。あなたのような修行者とてそれを持っているいわれはないが、今はただ三重の里の草刈り笛。ぜひ一曲所望す」
 というので、若宮は笛を取り出して吹いてみせた。その音律は美しく、三百の牛飼い、三百の牛も、耳を伏せ、頭を垂れてただ聞き入るのみであった。
 二人の老翁は牛飼いの長を呼んで、この者を長者の牛飼いにと頼んで山に分け入ってしまった。
 この翁こそ、一人は宇佐の里の者、もう一人はこの里の山王であった。
笠掛の的
 同じ年の4月2日、若宮は山路という名で長者の牛飼いになったが、山路の前ではどんな荒牛もおとなしくなり、牛に乗って笛を吹けば、その姿は気高く見えた。
 いつか夏も過ぎ秋になると、若宮は山王権現に参詣して、
「旅に出たのは春の頃、はや秋となったが姫の姿はまだただの一度も見ることが出来ません。もはや神の力に頼るほかなく、どうぞお力をお貸しください」
 と祈願した。
 般若姫は、7月3日の夜から急に病に倒れ、長者夫婦は大変驚き、山王神に伺いをたてると、
「姫の病気は諸神の祟りである。三重の松原に仮の神社を造営し、笠掛け的を射よ」
 というご神託があった。そこで三間四方の社を建てたものの、だれも笠掛けの的というものを知るものがいない。ところが山路がそれを知っていて、笠掛けの的の用意をすることが出来た。そして山路もまた射手の一人として出場することになったが、乗馬はなるべく荒馬が良いとされ、野津原弥五郎の厩に育った、大黒竜というたいへんな荒馬に乗ることとなった。
 山路の装束は、肌に白衣、錦の直垂、大紋の綾をもって腕貫とし、獅子の尾という剣を帯び、白木の御履ふみという姿で、娘が臥している館の方を向き四方を弓を持って払うと、姫の病気はたちまち平癒し、床から起き出て山路を拝んだ。
 山路は網代の笠に七宝の瑠璃を飾り、始めに一番の馬場明けという荒駈けをして乗り回すと、南から白羽の鳶、北から白鳩が飛んできて、神殿の棟にとまった。
 射手は3人。一番手の射手は松尾軍太夫。弓を満月のように引き絞り、走る馬上から的を射たが、矢は的を外れ、一尺ほど上の松の枝を折って向こうへと飛んでいった。
 二番手は岡本次郎。彼こそは必ず当てるだろうと見ていると、的の下五寸、松の幹に突き刺さった。
 そしていよいよ山路の出番。山路は神前を礼拝し、心を静め、三つの的を立てさせると九つの矢を持ち馬を駈けさせた。電光のごとく走る馬上から次々に射られた矢は三つの的をことごとく三々九度に射抜き、観衆は躍り上がって褒め称えた。山路は馬から下りると神前を拝んだそのとき、鳥が空へ飛び立ったのを見て、願いが成就したことを悟った。
 この時より、流鏑馬の神事は始まった。なお、山路の乗った大竜黒は笠掛けの的が終わった直後に死んでしまったという。
山路、般若姫と婚姻
 長者夫婦は家人を200人ほど集め、
「このたびは姫の病気もめでたく平癒したので、山路に姫をつかわすこととするが、その前に家人の中から数十人の美女を選び出し、姫と揃いの着物を着せ、屋敷に並べた中から姫を見事見あてられるかためしたい」
 といった。
 そしてその日となり、山路は装束を改めて座敷に通ると、皆一様の着物を着た美女が並んでいるではないか。家人の一人が、
「この中におられる姫をお当て下さい」
 といったが、いずれも選り抜きの美人ぞろい。姫と面識のあまりない山路は思案していたが、やがて一匹の鈴虫が飛んできて、その中の一人の髪にとまると金色の光を出した。山路は、これは神が教えているのだと気づき、それを指したところ、長者も家人も驚き喜んだ。早速婚儀をすることとなり、家人を残らず列席させ、めでたく式を終え、盛大な酒宴となり、皆、大いに興を尽くした。
 山路は長者に向かって、
「今となっては何を隠そう、私は欽明天皇第4の宮、橘豊日の皇子である。汝の娘を伝え聞き、たびたび勅使を使わしたが一人娘であると辞したから、身をやつして下り来たのである」
 と、はじめて身の上を明かした。長者、家人は大いに驚き、
「かように高貴なお方とは知らず、数々のご無礼、なにとぞお許しくださいませ」
 と、お詫び申し、急いで新御殿を造営した。
帝都の騒ぎ
 都では若君がいなくなって2年、大騒ぎして全国にお触れを出して探したが何の手掛かりもなし。そんな折、大伴持主が参内して申すには、
「近頃、豊後の国臼杵の浦人が、綾錦の幕や飾り道具を持参し、売りたいというので、そのわけを聞くと、昨年の秋、豊後の真名野長者の娘が病にかかり、三重の松原にて笠掛けの的を射たところ、無事平癒したとのこと。そのとき神前に供えてあったものをもらい請けたのだという。その笠掛けの的を射たものは誰かと尋ねると、都の若で長者の牛飼いをしていた十八ばかりの美しい若者だという。今は長者の婿となっていると申しました」
 といったので、その若者こそ若君だということになり、急ぎ迎えのために大伴持主、安藤隼人正を勅使として臼杵に向かった。
 臼杵に着いた勅使一行を長者は歓待した。宣旨の趣を若宮に伝えると、
「私は間もなく帰洛するので、汝らもそれまで滞在せよ」
 と仰せになるので、勅使はしばらく滞在することにした。
玉絵姫誕生
 若宮は一日も早く帰洛せねばならなかったのだが、皆と別れがたく、一日一日と日を延ばし、ついには二ヶ月が過ぎてしまった。さすがに勅使に促され、仕方なく長者にいとまを告げたが、このとき般若姫は懐妊していた。
「姫ともども上洛いたしたいと思うが、今はただならぬ体であるゆえ、懐胎の子がもし男の子であればすぐに連れて上洛して欲しい。もし女の子であれば、長者の家の世継ぎにして姫のみ上洛すればよい。いずれにしても安産が大切。そのうち迎えの者をきっと差し向けるであろう」
 と申し、硯を取り寄せて、
「我が子を此処に置く。今よりはこの里を大内山と名づくべし」
 とお書きになった。これが今の内山の由来という。
 この時、若宮19歳、般若姫17歳、欽明17年(557年)6月のことだった。
 般若姫は11月8日、めでたく女の子を安産し、玉絵姫と名付けられた。玉絵姫もやはり般若姫同様、舌に三日月形の痣があり、金亀ヶ渕の水を注ぐまでは泣かなかった。
翌年の春、般若姫は上洛の準備を溝部、萩原両氏に命じた。献上の品は黄金十万両、七宝の玉の箱、唐紅赤色の錦、紺地の綾錦網、金紗、羅綾、鸞絞電竜、唐織、錦繍、錦織白布、黒布、巻物の番八万及び、その外御召物、七宝の玉の天冠羅綾の錦、鸞絞の御衣、金紗の御絹という、数え尽くせぬ品々であった。
般若姫、遭難す
 明けて欽明18年、正月の中旬、百済から竜伯、定馳子という二人の船頭が数万の宝を積んで臼杵の港に入ってきた。長者は二人を呼んで、
「このたび姫が上洛することとなったが、船はいずれも小船で心もとない。幸いにしてその方らが来合わせてくれたので、姫の乗船としてしばらくお借りしたい」
 と申し入れると、
「私どもも、一度は日本の帝都を拝見したいと思っておりました。お安い御用です」
 と、気安く承知してくれた。長者は喜び、積んできた宝を全て買い上げ、臼杵の倉に入れ、船はきれいに整えて、綾羅の慢幕、玉のすだれを飾りつけた。
 今度の上洛は臼杵の深田にある新屋敷からと決め、二月上旬に長者夫婦と主だった家人は三重の大内から深田に引越しをした。般若姫の供人は御局三人、腰元7人、侍女20人、はした女50人、男子24人、守護職として野津原弥五郎が男女1000余人の同勢を引き連れ、大小合わせて120隻に分乗し、臼杵の浦から出帆した。
 長者夫婦や家人たちは紫雲山からこの船出を見送っていた。よって紫雲山は一名「姫見の山」と呼ばれることとなった。
 姫の船はやがて深江の浦に入り、停泊しているところへ勅使伊利大臣が三隻の船でやって来た。一行はふたたび碇を上げて出帆したが、周防の国平群島にさしかかった時、にわかに暴風が起こり、姫の船は周防の国熊毛の浦に流されてしまった。勅使らの船はようやく乗り切り帰洛したが、姫らは十日ほど滞在し、沖に見える小島に渡った。そこで馴子舞の祝儀を行なった。この島は豊後の姫島だと伝えられている。
 3月29日にこの島を出帆したが、周防の国大畠鳴門の瀬戸付近でまた暴風に遭い、120隻の船はばらばらに吹き流されてしまった。この時、萩原、竹内両氏が姫の守護仏千手観音を取り出し、
「船中安穏にご加護下さいますよう」
 と祈願し波間に沈めると、風はおさまり天気も回復した。
般若姫哀れ
 姫はふたたび熊毛の浦に船を停めさせ、8日間、不明になった家人の捜索をさせたが、95体の屍骸を見つけたのみであった。まだ240人余りが不明である。姫はいたく悲嘆し、
「このうえは王位などどうでもよい。なんの楽しみも望みはしない。せめて家人の亡骸が見つかってほしいものだ」
 と涙にむせぶのみ。その後、姫は生き残った家人に酒肴をふるまい、自分は初音、小菊、山藤という三人の侍女を連れて船のやぐらに登り、
「このたびは多くの家人が海の藻屑と消えてしまった。私は悲しみの極みです。このような悲しみにあってまで自分は皇后になどなれようか」
 というと、そのまま海へ身を投げてしまった。3人の侍女もその後を追って次々と投身した。しかし、船には水練に長けた百済の船人がたくさんいたので、競って海に飛び込み、4人は救い上げられた。
 しかし、姫は生きる気力もなくなり数日の絶食で次第に衰え、良薬も看護もその甲斐なく、いよいよ最後の時が来た。姫は家人を呼ぶと、
「私はやがて冥土へ旅立つが、残った宝の品々を都の若宮に献じてもらいたい。国へ帰ったならば、玉絵姫を守り育て、父母の跡を継がせて欲しい。また、わが亡骸は向こうの山の頂きに葬ってください」
 と言い残し、静かに眼を閉じた。欽明20年(558年)4月13日、御歳19歳であった。
 家人は彼の山に姫と40余人の亡骸を埋葬したが、今も姫の墳墓として残り、般若寺が菩提寺として建立されている。
 溝部、萩原、竹内、柿本原、竹田、臼杵、石上の7人が家人を伴って上洛し、遺品の品々を献上すると、帝をはじめ大いに嘆いたが、若宮の悲嘆は格別であった。帝は、
「不憫なる姫に、贈宮として般若皇太后宮を下す」
 と御下しになった。
 4月29日、家人らはこの御宣旨をいただくと、憂いの中にも喜びを持って豊後の国に帰国した。同年秋、都の北に「般若宮」という社が建てられた。
金政公と般若姫の供養
 欽明22年(562年)8月、萩原次郎衛門、萩原忠佐衛門の両氏は長者の意を受け上洛して、
「橘豊日の皇子の姫君、玉絵姫もご成長遊ばしたが、都へ御召し上げになりましょうか、お伺い申し上げます」
 というと、帝は、
「かねて皇子との約束があると聞く。姫は長者に賜う」
 と仰せになったので、両人は大変喜びさらに、
「この上のお願いながら、是非とも大内より世継ぎを賜りますよう」
 と願い申し上げると、
「もっともな願いである。伊利大臣の三男に金政という当年十三歳の者がいる。これを下し長者の世継ぎと致す」
 と、長者の世継ぎをお選びになった。両人は金政公のお供をして帰国すると、長者夫婦はもとより家人にいたるまで家の安泰を喜び合った。
 敏達元年(572年)、敏達天皇即位のご祝儀として、かつて豊日の皇子が牛飼いとなり、草刈りをされたことに因み、金政公に草刈右衛門助の号と、「橘の氏次と名乗れ」という勅定を与え、五万八千石を賜った。
 敏達2年(573年)6月、唐より赤栴檀の薬師如来、弥勒菩薩、名刀二振り、名僧・知識17人にて三尊の御仏を守護し、豊後の国へ来た。長者は大変喜ばれ、有智山にて会った。
「私達は唐の般若の嶺の円通大乗寺より三尊を守護し渡ってまいりました。薬師如来は天竺にて赤栴檀を用いてつくられております。そもそもこの尊像は、天竺にて疫病が流行った折、釈尊自ら刻んで作り、祇園精舎に安置していた仏像です」
 といった。長者は僧たちの勧めにより天竺の祇園精舎を深田の里に映し、諸仏を建立し、五院を建て、紫雲山満月寺と号した。やがて渡ってくる貴僧と諸々の僧侶達は、長者の屋敷の観音堂にて勧行をした。
 7月2日、長者は客僧たちを伴ってかつて皇子・般若姫がすごした臼杵の深田の新御殿に案内すると、
「ここは先帝の第四の皇子、橘の豊日の皇子と私の娘、般若姫が共に御座所となされたところです。皇子は帰洛され、娘は亡くなり、恩愛の楽しみも束の間の夢と消えました。どうぞ姫の後生の弔いを願います」
 というと、堪えかねて座敷に伏し嘆くので、高僧もこれを見て涙した。
 蓮城法師には7人の弟子があり、それに渡来の僧を加えた41人で8月7日から13日までの十日間、般若皇后の御供養が行なわれた。14日は海に沈んだ多くの家人の供養をし、十五日には高僧たちは法服を整え、管絃謡楽の曲、見仏間伝の楽を奏した。
 蓮城法師がいうには、
「この曲といいますのは、昔、西天竺の東西の方向に呉国という国がありました。その国に妙音菩薩が現れて、全ての曲を広めました。今は日本に極楽世界の様相を知らせようと、物語にして姫の為に供養なさいとおすすめしているのです」
 という。それを聞いて、思わず玉津姫も座を立ってしばらく楽に合せて舞い、
「名月の月は昔に変わらねど迷いの雲は月かくすらん」
 と吟詠した。すると不思議なことに、池の中より時ならぬ数百本の蓮華の花が開き、その中に諸々の菩薩が浮かんでいたという。
物部守屋大臣の長者攻め
 敏達6年(577年)3月上旬、守屋大臣は一門の家臣を集め、
「豊後の国に真名野長者というものが居るが、異国から沙門を招き、仏像を取り寄せ、天竺祇園精舎とやらの体を移し置くというのは、神国の敵なり。その罪許すべからず。先年、わが父尾與大臣が流罪となったのも、皆長者の所為である。帝の勅はないが、急ぎ押し寄せ平らげ、寺院を焼き払い、三類のものども残らず討ち取るべし」
 と命じた。手勢2000余騎、3月下旬に堺の浦より、多くの船に乗って出帆したものの、順風なく、9月下旬まで留まった。
 このことはすぐに長者に知らせが入り、家人残らず呼び集め、評定していたところ、幸いにも百済の国より軍法をよくわきまえている旅白、陸宮、般石という三人が渡って来ていた。
 10月下旬、守屋の軍勢は臼杵の浦に着き、29日に500余騎を三手に分けて、いよいよ長者の屋敷めがけ攻めて来た。長者側は渡来人を中心に立ち向かい、手に火を持ちて焼き払う。その火の玉は、天に上がれば雷のごとく、また、手を打てば手に帰る。守屋勢は三度戦い、多くの者が打ち殺され、残りの軍勢は160人ばかり。ようやく船に乗り込み、順風に帆を揚げて逃げていった。
 やがて中国内地も近くなったところで東の方より黒雲が立ち、にわかに大雨・大風が起こり、雷電振動し、山のような波が起こり、火の玉が虚空に乱れ飛んだので、守屋勢は大いに驚き、守屋を恨んで嘆いていると、向こうより小船が百艘ほど近づいてくる。その中から身の丈一丈ばかりの化け物が出てきた。その身は赤く、髪の毛は紅のようで四方に乱れ、顔は猿のよう。赤い衣を着て、眼は光り明玉のようで、手毎に火の玉を持って焼き払う。海上を走る鳥のごとく、船毎に乗り込んで、大声を上げていった。
「汝ら、よく聞くがいい。お前達の命を奪うことは簡単だが、この度だけは命を助けて帰してやる。しかし二度と長者を攻めてはならぬ。長者夫婦と天竺、唐土、日本の三国を守護している山王神とは我のことなり」
 と、手毎の火の玉を虚空に投げれば空にて飛び走り、雷のごとく轟音を発し、火花を散らした。
 山王神の化身は、
「汝ら、長者を攻めてはならぬぞ」
 と再び叫ぶと、守屋勢百余人は船中で死に、残りの六十人はやっとのことで都に帰った。
 11月8日、事の顛末の報告を受けた守屋大臣は大いに怒り、
「愚か者ども。長者の不思議によって、たとえ火の玉を使われようとも、恐れ帰るとは臆病者だ。この次は数万騎を差し下す」
 といえば、大伴の家臣が、
「長者は英雄貴族を数万人持ち、さらに百済から商船三十余隻に長者の家来であるというもの2000余人乗り込んでおります。日本ではまだ聞いたことのない火矢、石火矢などの攻め道具も持っていて、たとえこちらが十万の兵を差し向けても、勝つ見込みなどありません。また、豊後の国司たる長者に、帝の勅も得ずに兵を差し向けた怒り、尋常なものではございません。ここは和睦するに越したことはございません」
 と諫言した。ほどなく大臣もついに屈し、致し方なく大伴の臣を使者に立て、敏達6年(577年)11月、豊後に向かわせ、山王宮への寄進として八連の鈴を一対、金の幣帛一対、錦十巻、鉾二本を奉納した。
 草刈左衛門助殿には、金こしらえの鎧一領、名剣一振り、錦の直垂五重、槍十二本、弓十二張を持参して、長者父子はこれを出迎えめでたく和睦は成った。
 守屋大臣の多年の恨みも絶つことが出来、長者をはじめ家来にいたるまで、国中平和になり、ますます栄えたという。

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