真名野長者物語の時代背景
 「真名野長者物語」は昔話風のもあれば、古文書の読み下しでかなり具体的な内容のものまで見ることができる。他の同様な伝説と趣を異としているところは、年代の具体性や実在の人物の登場である。史実と照らし合わせれば矛盾する箇所も多々有るが、全体としては昔話や伝説の域を超えた、非常に保存状態のいい伝承物語だといえる。ただ、傍証となるものが少なく、史実とまではいまのところ言い難い。
 この物語は大和時代(古墳時代)から飛鳥時代初期へかけての真名野長者一代記となっている。邪馬台国が滅んで200数10年後の話、というといかに古い伝承であるかを感じることができる。
 弥生の文化を色濃く残し、地方と朝廷との関係は、まだあちらこちらで軋轢を繰り返していた時代である。
 この物語自体が編纂されたのは少なくとも平安期以降であることは間違いない。物語全体に漂う雰囲気はなんとなく大和、飛鳥のそれよりも平安の雅さを感じさせる表現が多い。
 玉津姫は久我大臣の娘ということになっているが、史実上、久我大臣の名が見られるのは平安末期、源義経の奥方である"北の方"の父親としてである。物語では、久我大臣の居所は奈良の平城京ということになっているが、真名野長者が生まれたとされる継体天皇の時代とはざっと二百年の差がある。そこで"久我"を"蘇我"と読み替えるとまた新しい展開が見えてくる。
 また、最初の難題の勅使に選ばれた"北面の武士"安藤隼人正であるが、北面の武士というのは平安期、院政時代に院の御所の警護に当たった武士のことで、院の北面に詰めたのでこの呼称がつけられた。これは1087年に設置されたものである。
 欽明17年(555年)に豊後へ下ってきた橘豊日の皇子は最初に宇佐へ詣でたとされるが、宇佐神宮の由緒によると、この地に八幡神(誉田別命=応神天皇)が出現したのは欽明32年(571)年とされている。橘豊日の皇子が宇佐神宮に詣でたとすると、少しずれがあるが、「日本書紀」には神体山である御許山に神代の頃比売大神が天降られたとの記述があることから、宇佐には八幡神出現以前にすでに祭祀の場があったことも考えられる。
薫(ふすべ)石 宇佐神宮からほど近い「薫(ふすべ)」という地区には、用命天皇が東宮であったころ、三重の真名野長者の娘に会うため、その身分を隠すために山(三)路という名に変え、岩の下で火を焚き、その煤で変装したという伝承のある「薫石」という巨石が存在する。このことからも宇佐の地に参詣したことは間違いないようである。
 文中、唐から渡来者や献上品の話がでてくるが、中国の唐朝(618~907)とは百年余りの差がある。ここでの唐というのはあくまで大陸という意味で認識すべきであろう。唐の文帝というのも出てくるが、もちろん唐ではなく、一番近くて陳の文帝(560~566)だがこれも少しずれている。梁の予章王(551)か元帝(552~554)なら納得できるのだが・・・。

玉津姫の出自
 前項で述べたように、"奈良の都の久我大臣の娘"というのは時代が合わない。京都には、京都最古の神社として「久我神社」があるが、これは桓武天皇の時代の創建で、久我氏自体は奈良時代まで遡ることができる。また、その祖をたどれば『天神立命(あまのかむたちのみこと)』といい、山背久我直の直系の祖となっている。
 継体天皇は、507年2月4日に樟葉宮(くずはのみや:現大阪府枚方市楠葉)で即位した5年後に、都を山背国の筒城に移し、更に6年後には同じく山背国の弟国に遷都する。山背の国造であった久我氏とは何らかの因縁は感じられる。また、継体天皇は蘇我氏との結びつきも固かったため、蘇我が久我に転じたということも考えられる。
 兵庫県佐用郡に佐用津比売神社というのがある。祭神は佐用津比売。佐用津比売は玉津日女の別名で、伊和大神の妹神とされる。
 伊和大神は大己貴神の別名ですなわち大国主である。「いわ」は「みわ」が転化したものともいわれ、玉津姫が豊後へ出発した折りに詣でた大和の国の三輪明神とも関係がある。奈良の三輪明神大神神社は非常に古い祭祀形式をとっており、本殿はなく拝殿の奥にある三ツ鳥居を通して見える三輪山を直接ご神体とし祭っている。祭神は大物主神すなわち大己貴神であり、伊和神社同様、少名彦神も祭られている。また、伊和神社の背後には磐座もあり、三輪山の祭祀形式と共通のものがある。
 三輪山との因縁はこれにとどまらず、後年臼杵・三重を支配した豊後大神氏の祖である大神惟基の出自は三輪山の伝説と同じく大明神(大蛇)神婚伝説を持つのも興味深い。
 さて肝心な玉津姫の出自であるが、決定的なものはいまのところ見出せていない。が、「久我の国」に土着した賀茂氏(鴨氏)からの出自ではないだろうか。物語に登場する主だった神社の祭神から推理すれば納得のいくところなのだが・・・。
 三重の蓮城寺裏の山中にある「山王宮」へ向かう道脇に地蔵や祠があるが、その中の一つに「高賀茂大明神」と記された祠がある。高賀茂大明神とは高鴨神のことで、雄略天皇により土佐に流された神とされる。高知の土佐神社や京都の高鴨神社に祭祀されている「味鋤高彦根神」は大国主命の子で、航海安全・病気平癒の神とされるのは、この長者物語にどこか通じるものを感じる。
 玉津姫が豊後に向かう三年前に筑紫で磐井の乱が鎮圧され、到着した翌年には大野川流域に「桑原屯倉」が設置されている。やがて直入県や大分国造も成立するなど、非常に大和の介入あわただしい時期であったことも何らかのヒントになりそうだ。

黄金の秘密=真名野長者と鉱業
 一介の炭焼職人であった小五郎がまたたく間に長者となったわけは黄金にあるという。三重の山中にそんなに凄い金の鉱脈があったのだろうか。臼杵・三重は中央構造線上に位置し、鉱物資源の大変豊かな地である。そこで三つの可能性を推理してみた。
 小五郎は玉津姫の持参した黄金に対し、「このような石はいくらでも転がっている」という。まさか金塊が小五郎のいうように、その辺にごろごろと転がっているとは考えがたい。小五郎は黄金と黄鉄鉱を見誤ったのではないかというのが第一の推理である。金色に輝くこの鉱物は、塊状でも粒状でも存在し、素人目にみれば黄金と間違えても不思議ではない。黄銅鉱とともに黄鉄鉱、赤鉄鉱などの硫化鉱物が豊富にあったことは間違いないが、見た目は黄金でも、その価値は比較にならない。しかしそれらの鉱物は酸化第二鉄、すなわちベンガラの原料とはなる。ベンガラは祭祀顔料として古代より珍重されていた。
黄鉄鉱 第二の推理はやはり祭祀顔料としてベンガラよりも珍重されていた朱沙の存在である。朱沙というのは硫化水銀のことで、真朱として大変珍重されていた鉱物である。また、ところによっては自然水銀が存在した可能性もあり、この自然水銀と、金を含んだ鉱石に小五郎の炭焼の際の熱が加われば、偶然にして金の精錬が行なわれた可能性も否定は出来ない。ならば「私の炭焼窯あたりにたくさんある」というのも納得できる。
 三つ目の推理は少々込み入っているが、一口で言えば朱沙から水銀を精錬し、それをもとに成り上がったというものだ。
 「小五郎が黄金によって富を得たという噂を聞きつけた衆が山へ向かったが、そこにはただの石ころがあるだけであった」
 という。実はここに大きなヒントが隠されている。結論からいえば、このただの石ころを小五郎は黄金に変えたのである。それは水銀を使用した錬金術であった。さらに大胆な推理をすれば、小五郎は黄金の価値も知らない愚者ではなく、何らかの理由あるいは目的を持って密かに金を精錬し貯蔵していたのではないだろうか。この説については後の課題とする。
 水銀の鉱床もまた中央構造線上に分布し、長者伝説の舞台となる臼杵・三重もその中に入る。水銀の原料となるのは朱沙といわれる硫化水銀の鉱石で、字のごとく赤い色をしている。赤い色は太陽に通じ、血の色として生命にも通じるため、神聖な顔料としても珍重され、古代より祭祀関係などに利用されてきた。また鉱物系の漢方薬としても古くから利用され、不老不死薬なるものの主要材料ともされていた。
 朱砂から水銀を得るためには加熱する必要がある。この製法は古墳時代にはすでに成立しており、伊勢の丹生大師には実際に使われた土製の釜が保存されている。
水銀は常温では液体である金属であるが、そのまま金と混ざり合うという不思議な性質をしている。その性質を利用すれば比較的容易に金を抽出できるわけで、まさに錬金術と思われても不思議ではない。
 水銀の価値は絶大で、金の精錬用としてはもちろん、朱沙の状態では顔料として神社など祭祀用として使われた。防腐効果もあるので塗料としても秀逸である。古墳の石棺内に多量に使用されていることはよく知られていることだが、これも宗教儀礼とともに防腐効果を期待したものなのかも知れない。また仏具・仏像をメッキする材料としても使われ、奈良の大仏全身のメッキに使われた水銀はおよそ2・5キログラムである。後、大仏の再鋳の際、水銀を供給した長井氏はそのものずばり水銀長者として言い伝えられている。
化粧の井戸 玉津姫が「金亀ヶ渕」で顔を洗うとアザが消えたとあるが、臼杵の深田には、「金亀ヶ渕」と同じ伝承を持つ「化粧の井戸」というのがある。その泉は現存し、乳白色の水をたたえている。皮膚の炎症や美白にも効果があるといわれ、土地の人の話によると子供の頃、この水でイボが治ったという。本来、人体には有毒であるはずの水銀であるが、一昔前、「赤チン」の名称で親しまれた傷薬には殺菌効果を期待して微量の水銀が含まれていた。現在においても中国産の化粧品の一部には美白効果があるとして水銀が使用され問題となることがある。
 後の真言宗の開祖である空海の知識は鉱山に関わるものにも精通し、実際に水銀鉱脈の近くには真言宗の寺が置かれているところをみると、空海もまた大陸への留学時代に水銀の有用性を学び、十分に理解していたものと思われる。四国八十八箇所も中央構造線に沿って置かれてい化粧の井戸るし、真言宗総本山の高野山自体が水銀鉱床の上にあるのを見ても明らかであるように、教団を維持するための財源は実は水銀にあったといわれている。
 以上、三つの推理から、顔料としてのベンガラ、朱沙。また朱沙から精錬した水銀そのもの、水銀を使って精錬した金、銀。水銀を貯蔵するためには鉄の容器が使用されるため、製鉄場も作られたであろう。そこで作られた鉄器類も重要な産物であったにちがいない。また、仏教文化が深く浸透するにつれ、銅・錫の需要も増えていったことは容易に想像できる。それらの鉱工業で成した財を使って大陸と盛んに交易を行なったことも記されている。これらが長者とその子孫を長きに渡って支える財源であったのだ。

朱沙とともに
 三重郷には古くから朱沙を採取する一族である丹生氏がおり、その祖は海人族に由来する。古代海人族は特に赤い色を尊重していた。近年まで臼杵の海部にそのような伝統を色濃く残した集落があったという。また、一昔前まで、海で泳ぐときはサメ避けのために赤い褌を絞めて泳ぐという習慣もあった。赤い色だけが伝統として残ったのだが、本来は丹を塗って海へ出たのだろう。丹に含まれる水銀の毒性をサメが嫌ったのか、日本でとれた銅を和銅というように水銀は和丹というとしたら、和丹は古来サメという意味のワニに通じ、「同族であるから襲うな」、というようなまじないであったのかもしれない。これは言葉の遊びに過ぎるか・・・。ちなみに肥後の古代和邇(和仁)族は海人族であったという。また海人族を祖とする平家一門のシンボルカラーも「赤」であった。
 かつて日本にたどり着いた民族はいくつかルートがあり、DNAを基に調べると、中国の南部から台湾・琉球を経て鹿児島から北上し大分から四国の瀬戸内海側を通り、紀伊半島まで達する海人族の旅を辿ることができる。紀伊半島から四国を通り大分、熊本というのは中央構造線とぴたりと一致し、まさに朱沙を追って北上したことがわかる。
 四世紀末から五世紀初頭にかけて、大和は豊後にも海部を制定する。「古事記」によると、海人族を大和の政権下に置くのは容易なことではなかったようで、肥後の海人族である安曇の大浜宿祢という豪族を派遣してやっと平らげたという。
 このように豊後水道から瀬戸内海沿岸は、まさに海人族の支配領域であっただろうし、そのネットワークや軍事力を真名野長者が利用していたことも考えられる。仏教崇拝を咎めて物部守屋勢が攻め込んできたが失敗し敗走する際、追い討ちをかけてきた「山王神」と名乗る一軍がまさにそれであろう。顔や体に丹を塗り、赤い衣を着て、大和にはない火矢や石火矢で戦闘を仕掛けてきた彼らは、いまだ大和政権に服従しない海人族でありながら、真名野長者を守護する部族でもあったことがうかがえる。大陸と広く交易していた長者が海路の安全保障のために、彼らに武器を与えていた可能性もある。また、彼らも真名野長者と組むことにより、支配地域から採取する朱沙を元に財力を得ることができたのだろう。

地名由来
 「臼杵」という地名の臼と杵。いかにも農耕文化を反映しているように感じるが、実は朱沙を細かく砕くための臼・杵であった可能性も高い。現に畿内や阿波吉野川沿いの若杉山遺跡では水銀朱の製造用と見られる石の臼・杵が多数出土している。
 「三重の里」という地名であるが、物語では帝が長者に対して三度の難題を突きつけたことの由来とされているが、三重県との関係もうかがうことができる。三重県には治田鉱山、水沢鉱山、丹生鉱山、紀州鉱山という、非常に豊富な金・銀・水銀の鉱山があった。特に丹生鉱山と紀州鉱山は全国屈指の鉱山であった。三重の里との共通点はある。
 そもそも三重県の三重の地名由来はというと、伊吹の神に破れたヤマトタケル命が、傷ついた体で鈴鹿の山を越える際、その苦難を嘆き、「我が足、三重に折れたり」といったものに因んだものといわれている。ヤマトタケル命を破った伊吹の神とは、日本書紀では蛇神となっている。
はたして三重の地名は、三重県の三重を映したのか、またはその逆か、これは謎としておく。

金政公
 長者の孫である玉世姫と夫婦になり世継ぎとなった大和の伊利大臣の三男金政であるが、伊利氏とは高句麗から帰化した渡来人である。祭祀に関与した日置造の流れで、暦や吉日を占う役目をした。奈良時代後期には伊利氏の子孫である栄井宿祢が陰陽師として活躍している。
 金政公の名は史実に見出すことはできないが、敏達帝より賜った草刈姓は後に草川、草野、草壁など「草」の一字を許された姓にわかれ、その末孫は現在に至っている。
 イリとは古代朝鮮語で『泉』を表す言葉だという。それは『百合』の語源ともなっている。伊利大臣すなわち百合大臣の若君である百合若こそが金政公である可能性もある。というのは、大分県に伝わるもう一つの長者伝説である「朝日長者物語」では百合若大臣は真名野長者の養子とされているからだ。またその物語では、橘豊日の皇子の所在を都に報告したのは、たまたま商用で都を訪れていた朝日長者であるとされている。
 この朝日長者はそのエピソードの奇異さは別として、実在した可能性の高い人物とされている。よって真名野長者伝説の傍証となり、真名野長者実在説の信憑性も少しは増すこととなるか。

有智山 蓮城寺
蓮城寺 創建された年代はわかっていない。もともとは大陸から蓮城法師がもたらした観音菩薩と医王如来を長者の居所に安置したことが蓮城寺の始まりとされている。長者はその後、蓮城法師と共に新しく寺を建立し、多くの仏像を安置し近在の信仰もいよいよ盛んになったが、尾與大臣に一度焼討ちにあっている。
 蓮城寺はもともとは内山寺とよばれ、鎌倉時代になり「蓮城寺」と呼ばれるようになった。蓮城法師に因んだものではあるが、後付けである。一説によると「蓮城寺」は聖徳太子による命名ともいわれている。般若姫が実在していたとなると聖徳太子の義母となるわけで、実際、内山観音の輪蔵内には聖徳太子像が祀られている。聖徳太子にまつわる話は他にもあり、蓮城寺の秘仏のひとつである「一寸八分の観音像」は、もともとは般若姫の守り本尊であったが、都へ上る途中の際の嵐の海を鎮めるために海に投げ込まれてしまった。後、怪魚に姿を変えて現れたのを聖徳太子がもとの観音像に変えてやり、玉絵姫に母の形見として贈ったという伝説もある。
山号の「有智山」は「内山」の転化である。
 蓮城寺はその後、真言宗の準別格本山となるが、前述の水銀との関係で、真言宗との結びつきは当然の事であるといえよう。
 三重町史によると、
「文治4年(1188)の「大法師基覚譲状案」によると、蓮城寺院主大法師基覚は、同院主職を嫡弟禅修房覚秀に譲るに際して、次のような注意書を付している。すなわち、「本来ならば代々の譲状をそえて与えなければならないところを、それらは基覚が所用で上洛している間に風波や賊難を避けるために玉田太郎に預けておいたが、玉田は火災のため焼失してしまったといい、返してくれないので、もしその証文をたてに寺の所有権等でもめることがあれば、それは盗人のしわざであるから用いてはいけない」というのである。この譲状の存在によって、蓮城寺の創建が少なくとも平安時代最末期文治四年以前に遡ることがわかるのであるが、譲状の文面からは、このころすでに蓮城寺が、風波や盗賊を恐れるほどに疲弊した状況にあったことが知られるのである」
とある。
 圧巻は薬師堂の「木造千体薬師立像」である。檜の寄木造りとみられる薬師如来はその数、1008体。これだけのものは日本でここだけだという。螺髪には群青、衣には朱、肉身部には漆箔を施してある。伝説によると長者宅を訪れた異人の手によるものだとされるが、これだけを見ても、かつてこの地に莫大な財力を持った一族が君臨していたことがわかる。
 境内には長者夫婦の墓とされる石造宝塔が建っているが、これは鎌倉期のものであるとされる。

金亀ヶ渕
金亀ヶ渕 この物語によく登場するこの「金亀ヶ渕」は、現在、蓮城寺駐車場下にある。いかにも亀が棲んでいそうな渕である。が、その上流にある、小さな美しい滝が流れている箕が渕・釜が渕の方が神秘的でこの物語にぴったりの場所である。この川渕には丹を含む石や金鉱石に近い石を見つけることができるが、金そのものや、似たようなものは発見できなかった。
 伝承では、玉津姫がこの渕で顔を洗ったり水浴をしたらあざがとれたということになっているが、見た限りでは普通の小川と変わらない。この件に関しては、臼杵の深田にある「化粧の井戸」のほうがリアリティーがある。もしくは「化粧の井戸」と同じようなものが、かつてこの地にあったのかもしれない。

山王宮
山王宮鳥居 山王宮に祭られる「山王神」は、もともとは比叡山の地主神として祭られたもので、御神体は八王子山(牛尾山)である。滋賀県大津市にある日吉大社が山王神社の総本山になり、磐座信仰のなごりをとどめる古い神社である。祭神は大己貴神、大山咋神。すなわち大国主命と須佐之男命の子である山末之大主神を祭っている神社である。大己貴神同様、国造りの神であり、工業・商業の守り神でもある。
 京都上賀茂神社の由来に、「ある日、娘の玉依日売が石川の瀬見の小川で水遊びをしていると、丹塗矢が川上より流れくだり、取って床の辺に置いておくと玉依日売は男の子を産んだ。」とある。この丹塗矢こそが山末之大主神とされている。なお、日吉大社の摂社の祭神は鴨玉依姫となっている。ここでは賀茂氏の足跡がうかがい知れる。
 賀茂氏(鴨氏)は渡来系の古代豪族で、古来より製鉄・鉄器制作を生業としてきた。洗練されたその技術が長者のもとにももたらされたに違いない。
 鴨氏の祖先は八咫烏(ヤタガラス)とされ、神武天皇を熊野から大和へ導いたとされる(日本書紀)。神武・綏靖・安寧の三帝の后は鴨族の首長の娘であり、葛城山麓に葛城王朝をつくり大和・河内・紀伊・山城・丹波・吉備などの諸国を支配した。しかしやがて三輪山麓に発祥した崇神天皇による大和朝廷に滅ぼされてしまった。賀茂氏が蛇神を信仰していたという、三輪山との共通点も面白い。高賀茂大明神
 後に比叡山に最澄が延暦寺を建てた際に、比叡山延暦寺の守護神に祭り上げられ、日吉社は全国に展開していく。よって現在、日吉社が天台宗とされるのは、あくまでも後付けである。日吉・山王神は猿を使いとする。
 現在、国宝・臼杵磨崖仏の中尾、山王山・深田、古園はこの日吉社の所有・管理となっている。
玉津姫が病のおり、家人が山王宮で祈念をしていると、山王神があらわれ懐妊を告げられるが、その際、生まれてくる姫は寿命短いことを知らされる。そのわけは、前世で殺生を好んだ報いだというが、「内山山王宮縁起」によると、前世で殺生を好んだのは長者自信ということになっている。仁徳天皇7年(319年)7月、五穀を荒らす猿の群れを追って山へ入った村人は、山王神と称する白髪の老人と出会う。その老人が言うには、
「今から150年後に、ここに一人の長者が生まれ来る。そのものは今は唐土百済国竹林山の麓に住まう柴守長者である。七宝万宝に満ちて自由自在に振る舞い、殺生を楽しみとしている」
 という。柴守長者の物語は、ここでは割愛させていただくが相当な非道を成した人物のようである。
 また、蓮城寺の山王宮には不思議な話がある。明治二四年、この山王宮のご神体が盗難に遭うという事件があった。幸いにして一ヵ月後に玖珠で発見されたのだが、そのいきさつが何とも不思議な話なのだ。当時の森警察署署長の話では、
「神像を盗んだものの家は崩れ、本人は自殺。厩の屋根は抜け、火でも起これば大変と村の人々が屋根に上がってみると、牛引きにキラリと光る奇妙なものが打ち付けてあった。警察がその知らせを受け現場に行ってみると、まさにこの金色の木像を発見した」
ということである。
 また、そのご神体を受け取りに警察署まで行くと、署長は、
「安置してある木像の下の棚が、しとしとと湿り、水が溜まり、不吉な恐ろしい思いでいる」
 という。これは山王様が早く内山に帰りたい思いなのだろうと、三人は驚いたという。

楠衛門
 小五郎を捜しに豊後の国を訪れ、難儀に遭っている玉津姫を助けた楠衛門は、後に、この地の豪族にまでなったが、朝廷と争い、一族と共に一家七人が殺されてしまった。真名野長者はそれを大変に悲しみ、親子7人を朱塗りの石棺に納め、古墳を造立し手厚く葬った。
 現在、潰平にある「塚原古墳」がそれだと伝えられ、昭和35年の発掘調査で4基の石棺が発見されている。

臼杵石仏の謎
臼杵石仏 ホキ、堂ヶ迫、山王山、古園にある四群六十余体の石仏群を臼杵石仏といい、国宝・国指定重要文化財に指定されている。その発願者は真名野長者以外に伝えられている人物はいない。製作年代も不明であり、ただその様式という観点からのみ、平安から鎌倉にかけての製作と一応はされている。しかし、物語では頻繁にこの地に渡来人がやって来て、交流があったのをみると、逆に臼杵石仏の様式がやがて中央に影響したということも考えられる。
 付近は何ヶ所か発掘調査をされた場所があり、平安から鎌倉にかけての建物跡などが発見されているが、それ以前のものは発見されていないとされる。これから見ると、最初は長者が般若姫供養のため発願した石仏製作を、やがて子孫が受け継ぎ、平安から鎌倉にかけて完成をみた、というのが自然なのかもしれない。
 臼杵石仏は、豊後の石仏のみならず、全国の石仏と比べても、その美しさは突出している。ということは、技術に長けた名工が手がけていたということになる。おそらく渡来人の石工たちやその子孫が多く関わっていたものとおもわれるが、その点は物語と一致する。
 臼杵石仏は昔から知られていたわけではない。いつしか忘れ去られ、長い間草木の影で眠っていたのを、昭和二十年代に発見され、世の注目を浴びることとなる。当地にこれだけ壮大な物語があるというのに、なぜ久しく祭られることなく忘れられたのだろうか。世が移り、長者の栄華も夢と消えたとしても、その子孫により伝え祭られていっても良いではないか。忽然と姿を消した長者一族と臼杵石仏は、インカ帝国とその空中都市マチュピチュのような不思議さが漂う。

消えた長者一族
 あれだけ栄華を誇った長者一族もある時期、何を境に四散したものなのか。もちろん産業の推移ということもあるのだろうが、一番有力な説として支持されるのは鉱毒公害問題である。まさにこの華麗な物語の暗闇の部分である。
 鉱工業に公害問題は常につきまとう。近代においてもその問題は社会に深刻な影を落としているし、古代においてはなおさら悲惨な光景が見られたはずである。対処法もわからず、いたずらに神仏の罰や祟りとされたに違いない。
 財力を維持するには生産を上げなければならない。生産を上げればそれに比例して犠牲が増えるのは容易に想像できる。ある時期、ついにバランスが崩れ、一気に長者一族は衰退への道へと突入したものと推理する。そして産業の中心地であった深田郷、丹生郷はその忌まわしい記憶を消すかのように長く封印されたのではなかろうか。
 長者没後も長く続いた工業生産で、豊かだった山も荒廃し、恐らく資源も枯渇して、さしもの長者王国もほどなく衰退し、寂寥とした村里に還っていった頃、この地の支配者となった大神臼杵氏がかつてこの地で栄華を誇っていた長者を偲び、またその繁栄にあやかろうとして、その物語を美しくまとめ残したものとも思われる。とするならば、臼杵石仏を引き継いで制作したことも素直に頷けるのである。

おわりに
 「真名野長者物語」は平安期~江戸期にかけて、それぞれの解釈や脚色を加えられながら伝承されてきた。真実により近づくため、その薄皮を少しずつめくっていく作業はやっかいだが、またそこで出会えるものへの期待も楽しいものである。もちろん、これにて真実に達したとはいえないが、一つの解釈として、後に真名野長者を研究していただく方への何らかのヒントとなれば幸いである。
 この文章は、「真名野長者は実在した」というスタンスでいろいろな角度から探索を試みて書いてみたが、物証や学術的な見地からみると今のところはどちらともいえない状況である。しかし、感触としてはやはり実在を確信するものである。
 なにしろ古代、古墳時代の話である。一般的に読まれている物語からくるイメージとは全く違う世界であったに違いない。蓮城寺には真名野長者の像として、裸身に袈裟をたすき掛けにした木像が伝わっているが、これこそ当時の僧の出で立ちであろう。長者ではなく蓮城法師像とすべきかとも思う。
 長者と手を組んだであろう海人族は、5世紀頃、臼杵地方を支配していた臼塚古墳や下山古墳を造立した豪族の子孫であるが、その後、大神氏が来るまでの間、この地に有力な支配者が見出せないということも、薄くではあるが、真名野長者実在説の傍証ともなろう。ちなみに豊後大神氏の祖、大神良臣が豊後守となるのは仁和二年(八八六年)のことである。4代目の大神惟盛からが豊後臼杵氏の祖となり事実上この地を支配する。真名野長者誕生とされる頃以前の筑紫の豪族磐井の勢力圏から大神惟盛まで実に400年弱の権力の空白期があるのだ。その間を埋める伝承こそが「真名野長者物語」なのである。
 蓮城寺を開山したといわれる蓮城法師や、日羅でさえまだ伝説上の人物であり実在は証明されていない。それをいえば国東六郷満山を開いたとされる仁聞菩薩もまた然りなのだが。また、真名野長者が実在とするなら、その墓所も問題である。あれだけの栄華を誇った人物である。古墳並の墓があってもおかしくはないではないか。と、ここまでくると邪馬台国探索のようなロマンさえ感じる。
「真名野長者物語」は肉と皮膚の二重構造になっている。その皮膚の部分は明らかに大神臼杵氏の関与がうかがえる。「真名野長者物語」を編纂し、臼杵石仏により、この地を仏の里として完成させたのは、大神臼杵氏であったと結論して終わろうと思う。

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